妊婦や子供も容赦なく惨殺 日本人が忘れてはならない「通州事件」ーその背後にコミンテルや中共などが暗躍
9月21日
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中戦争が泥沼化してゆく中、北京近郊の通州で日本の民間人225人(朝鮮人111人含む)が虐殺される事件が起こった。
昭和12年(1937)7月29日、通州事件と呼ばれるこの事件は、その殺害方法が、猟奇的で凄惨であり、戦後、日本では殆ど語られることなく、半ばタブー扱いされてきた。当時、城壁に囲まれていた街も、何事もなかったように、今や城壁も建物も無くなり、ただ1400年前の唐代に建造されたとも言われる仏舎利の塔だけが残っている。
なぜこの事件が発生したのか、その理由について様々な説が出た。事件の数日前、実行犯である通州保安隊を日本の爆撃機が誤って誤爆したことや、日本のアヘン販売に対する報復など。しかし、当時、活発に活動していた国際共産党運動(コミンテルン)や中国共産党(中共)など共産主義者の暗躍があったことはあまり知られていない(epochtimes)
なぜ通州事件で中国人保安隊が日本人を襲撃し、非常に残虐な殺し方をしたのだろうか。そこには中国共産党の暗躍が見られる
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通州事件:大規模テロ事件で日本人210数名が無惨に殺された
通州事件:大規模テロ事件で日本人210数名が無惨な殺され方をされた
目玉をくり抜く、鼻耳を切り落とす、喉を切り開く、腑をえぐり出す、男根を切り落とす、女性は乳房を切り落とす、陰部に棒を差し込む等、無茶苦茶な殺し方をされた pic.twitter.com/rS817Wku8B
— トータルニュースワールド (@TotalWorld1) September 19, 2024
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コミンテルンの暗躍
北からロシアの脅威が迫っててとてもじゃ ないけど中国と戦争やってる余裕はないということです。しかし8月に入っても日本軍に対するテロは止まないんです。そして8月の13日になってこれが上海に飛び火をするんです。第2次上海事変というのが起きます。
ここで多くの日本人が殺されてここに至って初めて日本はもう支那と定戦協議をやっても無駄だと戦争で片付けるしかないという決心をするに至るんです。7月の7日から8月の15日まで一生懸命定戦の努力をしたのは日本ですこれに対して繰返しテロ行為を働いて 日本を挑発し戦争に引きずりこんでいくのは中国です。
どっちが侵略ですかということです。これは日本に駐留するアメリカ軍に自衛隊が攻撃を仕掛けたらこれは日本が 侵略したことになるんです。
でなぜこういうことが起きたのかというと1917年に起きたロシア革命が関係してます。ロシア革命でモスクワに共産主義政権ができてそしてそのできた2年後ぐらいから世界を共産化するための共産主義インターナショナルいわゆるコミンテルンという組織が作られモスクワに本部が置かれます。
エージェントは世界中にばらまかれるんです。このコミンテルンの目標はまず支那大陸の共産化、赤化です。当時シ大陸の政治状況はどうであったかというと蒋介石国民党と毛沢東共産党の内戦状態です。蒋介石国民党が圧倒的に有利なんです。毛沢東共産党がやられそうです。
これでは支那の共産化ができません。そこでコミンテルンが考えたことは蒋介石国民党と日本軍を戦わせようと。そして両者がくびれたところで毛沢東共産党に支那大陸を支配させようということだったわけです。蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学をして新潟の高田の連隊で教育も受けてます。親日的な人で日本と戦う気は全くなかったのです。
蒋介石の寝返り
しかしある時期蒋介石は寝返ります。盧溝橋事件1937年7月7日の約半年前1936年の12月に西安事件という事件 が起きます。これは西安というところには蒋介石の部下機関であった張学良という男 がいたんです。張作霖の息子です。この張学良がどうも毛沢東共産党と真面目に戦っていないということを察知した蒋介石は少数の部下を連れて軍を連れれないでこの西安に乗り込んで張学良に督促するわけです。
その 時点でこの張学良僚はすでに裏で毛沢東共産党 と手を握ってたんです。そして自分の上官である蒋介石を逮捕監禁してしまうんですね。蒋介石は命を取られそうになります。しかしこの時モスクワのスターリンから
ストップがかかります。
生かしておけと蒋介石を生かしておかないと日本軍と戦えない。結果として国民党の弱体化ができないというのがスターリンの読みだったようです。
命を助けてやるからどうだ第二次国境合作をして一致抗日で日本に対して戦いを挑む気はないかということを蒋介石は持ちかけられて自分の命と引き換えに蒋介石は寝返ります。この辺から紹介席も日本と戦うと いう方向に大きく過を切ってくわけですね。その結果はコミンテルンの目論み通り第2次対戦が終わって1949年になって支那大陸は毛沢党によって強産化されてしまったということです。
日本はこの8月15日から軍を入れて揚子江沿いに当時しの首都であった 南京に向かって軍を進めるわけです。約4 ヶ月後の12月13日南京は日本軍によっ て陥落をさせられました。この時30万人の虐殺が起きたというのが中国の言分です。これは嘘ですまず人口は20万人しかいなかったんですね。
南京大虐殺の嘘
南京はですねで何金は 当時国際都市ですから各国の公使官も全部 あったんです各国の通信者もみんないたん です日本の兵隊がおばあちゃんを殴ったと いうことぐらいで日本政府に行が来るような時代です。当時はそんな時代に日本軍が虐殺をしたという行為が日本政府に来たことは1回もなかったし、また日本が虐殺をしたという電報を打った通信者も一社もなかったんです。戦後作られた嘘なんです。
これはむしろ当時の電報とかそういったものを見たら日本軍というは軍紀正しい素晴らしき軍だということを褒めてるぐらいです。この南京攻略戦には森元総理大臣のお父さん、森少尉も参加をされてます。森少尉は当時南京が陥落した後、イギリス大使館の警備を命じられてイギリス大使館の警備をしてたということだそうですけれども戦後は石川県の根上町に帰られてえ根上町の町長をギネスブックに乗るまで30数年間された方です。よく南京の話をされて南京大逆殺とそんなことあるわけないだろうと非常に平穏だったという話をされてたそうです。戦後作られた嘘なんです。ソース👉NipponkaigiJouhoku
参考記事
(画像:epochtimes:wikipedia)