「ウクライナのようなこと日本でもあった」あす東京大空襲から77年
3/9(水)
東京大空襲から10日で77年を迎えます。被災経験を語る活動を続けている男性は、「ウクライナのようなことが日本でもあったんだ」と訴えています。
関野清雪さん:「全然変わっちゃって分からない。川がここまであったんだもの」
1945年3月10日、当時10歳だった関野清雪さん(87)は爆撃のなか、両親らと近所の川に逃げました。
関野さんは空襲の時の経験を、当時の自分と同じ小学生などに語る活動を続けています。
関野清雪さん:「防空壕(ごう)に入っていられないような熱い風が吹いておりまして」
関野さんが話すのは、戦争の生々しい記憶です。
関野清雪さん:「人がいっぱい死んでいるんです。立ち上がって原っぱを見ました。原っぱにもいっぱいの人が死んでいるんです。親子が抱きあってボッボと燃えているのを見ました」「ある程度若いお母さんに話をすると『そういう話を子どもにしないでくれ』と言われる。ということは戦争を知らないから」「今ソビエト(ウクライナ)でやってるでしょ。そういうことが日本でもあったんだよって言った時にどういうふうに思うか、それを私たち(戦争経験者)は逆に聞きたいね」 (テレビ朝日)
東京大空襲はアメリカが行った、ハーグ陸戦条約、戦時国際法違反の民間人虐殺です
第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカにより行われた、東京都区部に対する、ナパーム弾であるM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。
日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」。Meetinghouse 2)を指す(77年前)。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。(wikipedia)