高市早苗氏「「留魂碑」の除幕式、発起人代表の挨拶で吉田松陰先生の辞世の句の最後「留め置かまし大和魂」に触れた。
安倍元総理も、日本人として日本を想う魂はこの世に置いていかれましたもの…。
安倍晋三元総理の御命日まで1週間となった今日、奈良市内に設置した「留魂碑」の除幕式を挙行しました。発起人代表として挨拶をさせて頂く中で、吉田松陰先生の辞世の句の最後「留め置かまし大和魂」に触れました。安倍元総理も、日本人として日本を想う魂はこの世に置いていかれましたもの…。
— 高市早苗 (@takaichi_sanae) July 1, 2023
昭恵夫人も触れた留魂録
昭恵夫人も安倍総理の告別式で『留魂録』に触れています。安倍元総理の故郷、長州の偉人である松陰の『留魂録』からこの言葉を引用したと思います。
【昭恵夫人の告別式挨拶「まだ夢見ているようです」「いつも私のことを守ってくれました。すごく感謝しています」「本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後の冬を迎えました。種をいっぱい撒いているので、それが芽吹くことでしょう」】
種を芽吹かせるのが我々の責務。合掌 https://t.co/EcxiFYF7Jb— 佐藤正久 (@SatoMasahisa) July 12, 2022
ご承知のとおり吉田松陰は自らの意思や寿命ではなく、安政の大獄という弾圧によって命を奪われました。(享年29歳)
吉田 松陰:江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。
松陰の『留魂録』とは
『留魂録』とは吉田松陰が、1859年(安政6年)に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書です。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となりました。
留魂録の名は、松陰の辞世の句「身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」からとったものです。
この留魂録の中で白眉とも呼ばれる部分が、「今日死を決するの安心は四時の循環に於いて得る所あり」から始まる、「松陰の死生観」を書いた部分です。
訳:(今日死を決するの安心は四時の循環に於いて得る所あり)今日、私が死を目前にして平安な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからです。
つまり農事の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。
未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。
私は三十歳で生を終わろうとしています。いまだに一つも事を成し遂げることなく死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。
けれども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょうか。
何故なら人の寿命には定まりがなく、農事が必ず決まった四季をめぐっていとなまれるようなものではないからです。
しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるでしょう。
十歳にして死ぬ者は、その十歳の中におのずからの四季があります。二十歳には二十歳の中におのずからの四季があり、三十歳には三十歳の中におのずからの四季があり、五十歳や百歳にも、その中におのずからの四季があります。
十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿(何百年も生きる大木)にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。
私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていないモミガラなのか、成熟した粟の実であるなのか、私の知るところではありません。
もし、同志の諸君の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。(同志其れ是れを考思せよ)[留魂録 古川薫訳 徳間書店]
吉田松陰が四時の循環を語る場面(花神:NHK大河ドラマ)
「武士と言っても私の家は百姓も同じだ。小さい時から農事はやってきた。
春は種をまき、夏は苗を植え、秋に刈る、冬それをかこう。収穫の時には酒を醸し、甘酒を作り、村中に歓声が溢れる。
人間にも春夏秋冬(はるなつあきふゆ)がある。病床で死ぬ者もそれなりの春夏秋冬がある。長じて死ぬ者も同じだ。四つの季節があることは人生の長い短いとは関わりない。
春、夏、秋、冬、どんな種が実っているか、私にはわからない」