中川昭一氏の葬儀で安倍元総理が読んだ弔辞を掲載します。
ご承知のように、中川昭一氏は保守中の保守と言われ、安倍元総理や麻生太郎氏から尊敬された人物で、盟友でもありました。
中川昭一氏は、2009年に56歳で亡くなりますが、その死は今も保守から悼まれています。
中川昭一(なかがわ しょういち、1953年〈昭和28年〉7月19日 ‐ 2009年〈平成21年〉10月3日)は、日本の政治家。自由民主党に所属していた衆議院議員。位階勲章は正三位旭日大綬章。学位は法学士(東京大学)。
朦朧記者会見
中川昭一氏で有名なのが、朦朧会見ですが、この会見には多くの疑問が呈されています。
2009年(平成21年)2月14日、G7の財務大臣・中央銀行総裁会議が、イタリア・ローマで開催された。同会議終了後、日本銀行総裁・白川方明と財務官・篠原尚之との共同記者会見に臨みましたが、その発言は呂律が回っておらず、あくびをし、表情は目が虚ろという状態でした。
メディアはこれを「深酒居眠り会見」などと報じ、映像を徹底的に報道し、中川氏を非難し続け、中川へのバッシングが過熱した。結果、大臣職を辞し、その半年後に行われた選挙で落選し、その後心労が重なり、2ヶ月後に自宅で死去しました。
会見の動画は載せませんが、一番の疑問はこういう状態で会見に送り出せば失態につながるというのは、取り巻きや側近ならわかると思います。それをなぜ会見に送り出したのか。この点は疑問として今でも残ります。
急死
同年10月4日、東京都世田谷区の私邸2階の寝室で倒れているところを、郁子夫人によって発見された。東京消防庁による救急搬送先で死亡が確認されたが、実際の死亡日時は発見前日の10月3日と推測されている。
56歳だった。死因について、その後遺族は弔問客に急性心筋梗塞と説明していたとされるが、実際の死因は行政解剖によって循環器系の持病の可能性が指摘されたものの特定には至らなかった。(wikipedia)
安倍元総理の弔辞
昭一さん、きょうは昭一さんと呼ばせて下さい。
私と昭一さんとは、お互い父親が親しい政治家同士という関係もあり、家族ぐるみのお付き合いをさせていただきました。私が父の秘書となり、政治の世界に足を踏み入れてから今日まで長く親交を深めることができたことは、私の喜びとするところであります。
先般の総選挙直後、お目にかかった時には、さすがにお疲れの様子でしたが、2週間ほど前、電話で話した際は大変元気で「安倍ちゃん、保守再生のために頑張ろうよ」と語りかけてくれました。激励しようと思った私が逆に励まされました。
その矢先の突然の訃報に私は愕然とし、言葉を失いました。再起を目指していた昭一さんの意欲に、多くの人達が期待していただけに無念であります。かえすがえすも残念であり、本人もさぞかし悔しい思いであったことでしょう。
私が初めて選挙戦に挑んだ際、昭一さんは当選3回でした。まだ、ご自分の選挙に集中しなければいけない中で、あなたは私の選挙区に足を運び、心にしみる応援演説をして下さいました。
当選後は国家の基本問題で大きな議論が起こった時、私は昭一さんと行動を共にしてきました。常に昭一さんはリーダーでした。〝颯爽〟とした若武者ぶりは、当時の私達若手議員を奮い立たせる魅力と力にあふれていました。
いまでも忘れません。自由民主党の党綱領から憲法改正の柱が削除されそうになった時、昭一さんは当時の党の重鎮を向こうに回し、堂々と論陣を張りましたね。
時は村山政権時代。このままでは日本は危ないという危機感の中で、教科書問題にも取り組みました。中学校の歴史教科書すべてに従軍慰安婦強制連行の記述が載ることになりました。このような自虐的な歴史観を何とか正し、子供達が日本に生まれたことに誇りを持てる教育に変えたい。その一心でした。
当時の政治状況、マスコミの報道ぶりから考えれば、圧倒的に不利な情勢であり、まさに多勢に無勢でした。
その中で私達は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げ、メンバーの総意で昭一さんに会長をお願いしました。批判の矢面に立たされる危険がある中、俗に言えば票にもつながらない、政治キャリアにはマイナスかもしれない役職を、昭一さんは「俺がやらねば」という思いで引き受けてくれました。
拉致問題でも全力投球でしたね。憲法改正問題も同様でした。
今から思えば全て困難な問題ばかりで、私がまだ当選1、2回の頃、若手の仲間と「昭一さんに、こんなに何でも押し付けていいのかなあ」と話し合ったことがあります。
しかし、責任感の強い昭一さんは自ら困難な問題に立ち向かい、その後、教科書の記述は改善されました。
難局に立ち向かうことで世の中を変えていく。そのためには全力で闘う。私も昭一さんの驥尾(きび)に付し、「闘う政治家」の姿をあなたから学びました。
小泉内閣時代、昭一さんは経済産業大臣、農水大臣を歴任されました。その間、海外出張は何と43回にのぼりました。
東シナ海のガス田問題で、あなたの毅然とした外交姿勢は資源外交の重要性、国益を守るとは何なのか、ということを私達に身をもって示してくれました。
安倍内閣が誕生した時、私は迷わず、あなたに政調会長就任をお願いしました。平成19年1月、通常国会で昭一さんは代表質問の壇上に立ちました。奥様のお話では、まじめな昭一さんは深夜まで何回も“推敲”を重ねたそうです。
その冒頭、昭一さんは張りのある声でこう切り出しました。
「国の骨格をなすものは、憲法、安全保障、教育であります」。そして結びで「アインシュタインが称賛した日本人の謙虚、質素などの美徳を保ちつつ、誇りと自信を持った国民によって、見える部分、見えない心の部分も、ともに真に美しい国、日本が実現されるよう全力を挙げて努力することをお誓いします」と述べられました。
私は代表質問に聞き入り、昭一さんと共に歩んできた道、闘ってきた道に思いを馳せました。
あなたの歩んできた道は国家のため、まさにその一筋で貫かれていました。
お別れの時がきました。
私は残されたご家族、ご参列の皆様に改めて申し上げたいと思います。
「中川昭一は立派な政治家でした」
まだまだ国家のために一緒に闘ってほしかった。私達はあなたを必要としていました。
こんなことを申し上げていると、あの魅力的で、誰をも虜にする、はにかんだ笑顔で「そんなにほめるなよ。安倍ちゃん」という昭一さんの声が聞こえてくるようです。
国家の行く末、残されたご家族、昭一さんにとって心残りだと思います。
しかし、ご長女の****さんはジャーナリストとして活躍され、将来が渇望されています。高校2年生のご長男、**君はスポーツで鍛えられた精神と肉体を持った優秀な青年に成長されました。
(以下音声途絶える)
ソース👇6分過ぎから
参考記事
お二人のご冥福をお祈りします。